フラメンコはその時その瞬間に感じたことを、積み重ね上げて作られて行くものだと、最近つくづく思う。曲種の中でも最も重要であるソレアを例にあげて考えてみる。12拍で1コンパスを成すソレア。これを4等分にすれば3拍ずつに分かれる。話や文章の内容をわかりやすく伝えるための構成の組み立て方に「起承転結」という言葉がある。これがソレアのコンパスを4等分したものに、ちょうど当てはまる。まずは最初の3拍で起こし、次の3拍で受け渡し、次の3拍で転じて、最後の3拍で結、すなわち締める。この1コンパスだけでソレアが演奏できる。ひとコンパスだけでフラメンコが誕生するとは、何とも稀で素敵な芸能だと感じる。これを次々と繰り出して曲が出来るので、先に曲ありき、ではないのだ。この構成のあり方は地球の自然界のあり方そのものと似ている。自然界は結果ありきではなく、あらゆるもの全てが現在進行中という花鳥風月の世界である。自然界だけでない。他の例を挙げると、スペインのバルセロナにあるガウディの建築物「サグラダ ファミリア」教会は、人々の寄付で建築中の、終わることのない現在進行建造物だ。最近は完成が近づいていると言われているが、それはガウディの本懐ではないだろう。完成が彼の目的ではない。今を生きる人たちが知恵と力を合わせて、進行形の状態を作り上げている様相、そのものがガウディのねらいだ。自然界同様、我々人間も肉体は毎日、新陳代謝を繰り返し、一瞬足りともその流れは止まることがない。人間のあり方も同じく、完成すなわち終着点の概念はないだろう。絶えず時は流れ、人間は緩やかに変化していく。万物の動体自体を描くこと、それがソレアのあり方、つまりはフラメンコ全般のあり方なのだと感じている。
コンパスとは、一定の間隔で回るリズムパターンのことで、フラメンコの最も大事な要素と言える。フラメンコはこのコンパスを通して会話をしている。つまりコンパスを共有することで作られてゆく有り様がフラメンコなのだ。スペインのアンダルシアにおいてコンパスは、食事や宴会の後に自然発生的に生じるフィエスタでは欠かせないリズムの基礎になっている。アンダルシア人は幼い頃からコンパスに親しむ環境があるので、自然にコンパスが身についている人が多い。特にヒターノ(Gipsy)は鋭い感性でコンパスを操る。それをベースにして、上ものである唄やギター、踊りを表現する。フラメンコ以外の他のジャンルにおいても、同じくリズムは重要である。ジャズピアニストの小曽根真氏は「ジャズはリズムで弾く」と断言していた。これはアドリブに限った事ではなく、メロディーもリズムで演奏するそうだ。フラメンコも、もっとコンパスで弾く事を学びたい。コンパスを育てる環境が無い日本では、日常でコンパスを感じることが皆無だ。そのハンディを少しでもなくすため、2023年3月から、ペーニャ・ブレリアの会を設けました。フィエスタの疑似体験を通して、コンパスを身につける試みです。詳しくはホームページのギター教室のページをご覧下さい。
人類無形文化世襲財産(Patrimonio Cultural Inmaterial de la Humanidad)であるフラメンコは、スペイン人とりわけヒターノ(ジプシー)達の伝統的文化である。世襲財産とは日本の歌舞伎や能と同じく子孫へと代々に受け継がれていくもの。そこには当事者以外の、まして外国人にはとうてい届くことのできない、血縁者だけが扱える特権的な空気が存在するように思える。彼等は家宝として大事にする為に、民族的な差別化、特殊性を持たせている。フラメンコを形成する屋台骨が、時代の流れとともに揺らいでいくのを世間から防いでいる面もあるだろう。先日、ヘレスのAlcazarで開催された「50aniversario Fiesta de la Buleria de Jerez 」を三日間にわたって観ることができた。既に亡くなってしまったヘレスの大家達は大勢いるが、この舞台では、次世代の若者たちは躊躇なく堂々と、また現世代は今感じる洗練されたフラメンコをそれぞれに舞台で示してくれた。脈々と未来へ受け継がれていくヘレスのフラメンコ、永遠なれと願う。
ここ十数年、エンリケ坂井さんが企画・出版されているCD「グラン・クロニカ・デル・カンテ〜カンテの大年代記」がついに16作目を数えた。前世紀初頭に存在したSP盤のレコードの数々。これは、そのエンリケさんの膨大なコレクションから抜粋したものを、現代の人たちが手軽に聴けるよう復刻したCD全集である。フラメンコに深い愛情を捧げる飯野昭夫さんら諸氏によって採詩、翻訳、解説されたこれらは、フラメンコの理解と普及に貢献しているばかりか、その時代のアルテに触れられる音源として貴重な資料となっている。驚くべきはそれらがおよそ百年前のカンテとギターということ。現代フラメンコの多くは、過去よりリズムが複雑になり、より進化しているように思っていたが、百年前のリズムはどうしてどうして、揺るぎなく正確で、今より豊かなコンパスとして表現され、いつの間にか私はその魅力に惹きつけられてしまった。また、そこに登場する多くの先人たちのアルテは十分に洗練されていて、すでに一つの芸術として完成されているといえる。そのころの日本は明治・大正時代にあたるが、当時のロマン派の文化背景になぞらえて、同じように多くの良きものが長い熟成期間を経て誕生した時期だっただろう。古き良きものから学んでこそ、新しい知識と見解を得る。フラメンコには「温故知新」がよく似合う。
不朽の名作アルバムとなった「アルモライマ」は、1976年パコ・デ・ルシアが28歳のときに発表された。本来観客を前にした舞台上での演奏にこそ、パコの真価が発揮されるが、このアルバムの収録曲にも彼の真髄を見ることができる。彼の出生地であるアンダルシアの風土が、全曲にわたって表現されている。その意欲あふれる挑戦と心地よいドライブ感、自由を謳歌する感性、そしてなによりもフラメンコへの深い愛に満ち溢れたパコのギターに、誰もが心を動かされるであろう。当時パコの演奏は「右手に伝統、左手に革新」と表現された。その意味とは、ラスゲアード等の古来より伝わるフラメンコ奏法を弾く右手を伝統に例え、今までフラメンコで使われなかった音を押さえる左手を革新に例えている。現在聞かれるフラメンコギターのフレーズの多くは、この収録曲8曲に少なからず影響を受けているほど「アルモライマ」におけるパコ・デ・ルシアの功績は偉大だ。今もなお世界中の音楽シーンに強烈なインパクトを与え続けている、フラメンコギターのベストアルバムである。
数年前から衰えた姿を感じさせてはいたが、2014年2月25日に突然に逝ってしまったパコ・デ・ルシア。フラメンコギターを始めた時からずっとあなたを見てきた・・・そして近い将来、また日本での公演が実現するのを楽しみにしていた矢先に、あぁ残念・・・合掌。 1972年の初来日以降、多くの公演でその唯一無二のギターを披露してきた。フラメンコの世界では先代のマエストロ達であるラモン・モント―ジャ、ニーニョ・リカルド、サビーカスらを履修して、なお大きく超えた世界を闊歩してきた、まさに百年に一人の大ギタリストであった。ジャズ等の和音やスケールを取り入れた左の押さえと、アンダルシアで培われた揺るぎないリズムに乗ったピカード、ラスゲァード、アルサプアなどのフラメンコ伝統奏法を自在に駆使した。フラメンコはクラッシックのように現存する曲を楽譜通りに演奏する概念を持たず、演奏を通して演者の感情の発露を楽しむことを信条とする。パコは盟友カマロン・デ・ラ・イスラとの共演のみならず、ラテンやファリャの名曲に挑戦し、チックコリアらのジャズメンたちとの出会いからスーパーギタートリオでの活動を展開、またアランフェス協奏曲をテーマにオーケストラと共演した。そのすべてを自身の世界ツアーの肥やしとしながら羽ばたいてきた。まさに圧巻!のチャレンジャー。握手したその手がマシュマロのように柔らかく温かかったのは、真のギター弾きの証。誰もが真似したくなったその早弾きは、しかし誰も真似できない。至上のギターに、ただ遠い憧れを抱くばかりだった。ジャバンが唄う「オセアーノ」の間奏に、遥か彼方まで上り詰めたパコのギターが気持ちよさそうに泳いでいる。今頃は初来日の際の共演ギタリスト故エンリケ・メルチョール、故実兄ラモン・アルへシーラス、それに唄い手の故カマロン等と再会して天国のバルでギターを弾いているかな。同時代にギターを弾けた私達は幸せでした。パコ、ありがとう。長い間お疲れさまでした。
マヌエル・アグヘタを伴奏した。彼は現在世界最高峰と称えられるジプシーのフラメンコ歌手。スペインのアンダルシアの片田舎ロタに住んでいる。8月日本に短期滞在した際、一夜限りの公演に、幸運にも伴奏する機会を得た。その日は、魂を歌う最後のカンタオールの名にふさわしい熱唱であった。己のすべてを絞り出すカンテは観客を総立ちにさせ、伴奏している私も鳥肌が立つほどであった。心を込めて唄う姿は崇高で、激しくも洗練された歌声は、フラメンコの奥深い泉に私たちを誘い導いた。彼が歩んできた道の頂上は、澄みきったよどみのない透明感があり、神々しくもあった。その世界を垣間見た私は、あまりに繊細で孤高にそびえるマヌエルに感動して、衝撃を受けた。カンテに対する彼の強く揺るぎない信念は、余計なものを一切纏わずにシンプルで美しい。究極のフラメンコを経験できた幸せな一夜であった。
物が見えない音の世界は、音そのものをよく聞く姿勢が重要だ。音を聞いてその声に思いを巡らし、自身が出した音と自分が対話する。音の具合を見る。すると一つの音だけではない、いろんな音が聞こえてくる。音が産まれる瞬間の微かなかすれ声や、空気と混じって震える声。歓びを表しているかの如くはね上がる声。やがてそれが次第に消え失せてゆく声が、聞こえてくる。和音のように複数音なら、その交わり具合を聞く。するとまるでギターが何かを主張しているように感じる時もある。「もう少し私の方を向いて!」と怒られるようにも「今の音の具合はとっても良い感じ!」と満足感を漂わすようにも感じる。そしてその声に応えてギターのタッチや強弱を変え、調弦を繰り返し、ベストな音を引き出してあげる。そうやって納得するまでギターの音と会話してから、はじめて曲を弾く。これはギターに限らず、すべての表現者が出す音に通じることだと思う。踊り手の踏む足の音しかり。リズムの構成以前に、床と靴音が合作した音の具合を聞いて、気持ち良い打点音を選ぶ。靴底の釘と床の合作音は、場所や床板の状況によってさまざまに変わる。最良な音を選ぶポイントは、音の気持ち良さを本人が感じられるかどうかに尽きるだろう。手拍子もそう。かくして試行錯誤を繰り返し、ギタリストはそのギターにとっての最良の音を、声を、引き出した時、信頼できる仲間を得たような格別な思いに浸れるのだ。
一回の本番は百回の練習よりまさる。聴衆の前で演奏する本番では様々な起こる。ときには音が造り出す想像の世界と人の魂が出会うのを目の当たりにするような素晴らしい瞬間もある。まさに一期一会の体験だ。一方、練習は個人でするもの。出会いを前に身支度をするように、考えうる出来るだけの練習をして本番を迎える。この世のものはすべて自分と他者と偶然との産物。本番は一瞬に生まれては消えて行く泡のよう。1984年の夏、セビージヤに滞在していた私に、思いがけないマラガのタブラオ仕事が舞い込んだ。そこでは本番のための打ち合わせは一切なく、ステージに上がってから一曲ごとに曲名を知らされた。始まると私は五感を駆使して曲の展開に集中し、踊り手と唄い手の合図に呼応した。極度の緊張感は技術を超えてギリギリの感性を引き出し、退屈な練習とは違って、二度と弾けないものが次々と飛び出す。だから初見のフラメンコほど面白いものはない。そこではいずれ消え去る時間が刻々ときらめく。スリルと冒険を体験できる上に、自身の芸の限界を打ち破る貴重な機会でもある。そんな魅力的な時間に浸りながらのやり取りこそ、フラメンコの醍醐味だ。
ソロギターを弾くには、踊り伴奏10年、唄伴奏10年のキャリアを積まないと出来ない、と言われた。その中でも特に大事な唄の伴奏は、私たち外国の人にはとっても難しい。何よりスペイン語の唄を理解していないといけない。そして唄い手の気持ちに添いながら互いに一つの世界を共有する。フラメンコの知識や形式以上に、表現者として伝えるものを分かち合わないとならない。共に価値観を共有してこそ初めて、伴奏した喜びを味わえるだろう。呼吸を合わせるために、知識の他に風土が持つ互いの感性も重要だ。歌い手が吐き出す息に合わせて自分も吐いたり、感情を込めて歌う歌い手の気持ちに同化する。前奏や間奏は、踊り伴奏に弾くファルセータよりも、より間延びしない短いものを弾く。「comer compas」とはコンパスを食べて進む。つまり、杓子定規なリズムの刻みではない、余分な拍を割愛して全体的な美しい流れを作ることを言う。そんな高いハードルを越えて、唄伴奏の名手と呼ばれたマエストロに、ペリーコ・デル・ルナール、ディエゴ・デル・モロン、メルチョール・デ・マルチェーナらがいる。彼らの素晴らしい演奏は、今では録音でしか聴くことが出来ない。
しっかりとした強固なコンパス感は、フラメンコギターの基礎といえる。コンパス感は踊りを伴奏することによって養われるし、後々の唄伴奏やソロギターを弾くのに大いに役立つ。1980年代の私は、数え切れないほどの踊り手を伴奏し、たくさんのことを学んだ。スペインのセビージャでは毎日、何時間も踊りの伴奏に明け暮れた。当初は踊り手の足を見て、懸命にギターを合わせていたが、次第に足を見なくても伴奏できるようになった。動く踊り手の中心である腰を見て伴奏する。さらには顔の表情から踊り手の意図を読み、その全体像から次の動作を予測できるようになった。そしてそれは踊りを伴奏する楽しみの一つでもあった。踊りの伴奏ではギターはラスゲアード奏法がほとんどを占めるため、ギタリストのリズムの刻み方や切り方が踊りの伴奏の良し悪しを左右する。一方、たくさんのメロディをちりばめた伴奏は面白みにかける。ファルセータと呼ばれるギターのフレーズが伴奏になくても、ラスゲアードだけで踊りを十分に、アグレッシブにスリリングに見せられるのである。ファン・マジャ・マローテ、ホアキン・アマドール、カルロス・エレディア達は踊り伴奏の名手である。彼らのバリッバリッ、とした歯切れ良い、弦も切れんばかりのラスゲアードは、男気溢れて観客の胸をすく。今のフラメンコシーンではすっかり見られなくなってしまったのが、とっても寂しい。
伝承芸能であるフラメンコは楽譜を必要としない。親から子供へ、師匠から弟子に伝える日本の伝統芸能のごとく、フラメンコも直接人から人へ受け継がれる。楽譜が使われても、それは記録用に残されたり、参考資料として利用される程度かもしれない。十人十色の相違こそ価値ありとするフラメンコの世界。そこではクラッシック音楽の様に、楽譜を間違えないで弾くという概念が元々存在しない。決まりのあるリズムの型をもとに、瞬間で心に感じたもの、奥深いものを音に込めることが良しとされているからだ。そしてそこには演者の気迫も要求される。音を聴けばどれだけの思いが、弾き手にあるかを感じることが出来るだろう。音はすなわち、人の心を表す。例えば、今まさに息絶えようとする男が、渾身の力で床を叩く音と、ただ空虚に叩く音とは、感じ方に違いがでると思う。各自が心に持っている思いのたけをギターに注いだときこそ、「オレ〜」のかけ声がかかり、他の音楽とは一線を画した、まさにフラメンコたるギターになるだろう。
弾きやすさと音色は、ギターに求められる大事な要素である。音色は良いけど弾きにくいとか、弾きやすいけど音が悪いとか…果たしてギタリストは両方を満たすギターを探して、さまざまなギターに出会う。はじめから納得できるギターに出会えるのはまれだろう。最終的に自分に合う最高のものに到達できたら幸運だ。しかしはじめは納得できないギターでも、手塩にかけて弾いていると愛着が湧き、やがて奏者に合うギターへ落ち着くことがある。例えば作られたばかりの新品ギターは、それからさらに7、8年の時間がかかって塗装と木材が乾燥するらしい。だからその間の鳴り具合い加減で、音色が左右される場合がある。弾き手によってギターが育つとも言える期間だ。高価な銘器でも、飾っておくだけだと鳴りが悪い。ギターのブリッジ等々を微調整して、弾きやすくするための工夫を重ねる。そしてボディの隅々までをしっかりと鳴らして、その潜在能力を最大限に引き出してあげると、少しずつ弾き手の音色になっていく。大事なギターだからといって、ギターに負けて主従逆転し、申し訳ない程度に弾かせてもらっている状態では、良い音は出ない。弾き手がギターを征服し支配する。銘器ストラディバリオスを使用する某バイオリニストは言う。「ストラディバリオスだから良い音が出るのでしょう、と皆さんによく言われるけど、それは誤解しています。最終的には音色は楽器が出すものではなく、弾き手自身が出すものです。」
1984年、僕はセビージャのトリアーナ地区にあるロドリーゴという名の通りに住んでいた。三階のバルコニーからは、アンダルシアの古き良き趣が残る街角が望め、時折、野良仕事を終えた馬が前の道をゆっくりと通り抜ける。静かに響き渡るのは、石畳を踏む馬のひづめの足音だった。石畳は、雨に濡れると一層美しく輝く。約10cm×20cm長方形のそれは、職人によって一つ一つ手で埋め込まれる。通り一面に敷く手間は膨大だ。下水管工事が行われても、アスファルトで一気に埋めることはしない。また一つ一つ根気良く埋め込み直す。そこに注がれる人々の想いに、スペイン文化の素晴らしさをみる。時と手間をかけることはそのままフラメンコギターに当てはまるかもしれない。ギターのフレーズには幾多の試行錯誤と長い時間が費やされている。思い付きや即興もそれらの裏付けの証だ。スペインの小路が、いつまでも石畳が埋め込まれている限り、フラメンコはスペインで生きていると安心するのだ。
梅雨時、ギターの表面がベトベトになるほど、ひどく湿気がギターを襲う。湿気が楽器に大敵とはいえ、とても部屋内で常時クーラーをかけて保管する事は出来ない。せめて除湿剤をケースに入れて、時期をしのぐしかない。ところで、湿度とギターの関係は、温度とギターの関係でもある。気温が高いと弦が伸びる、と言われるが、それは弦が伸びるのではない。木製楽器であるギターのボディが、温度の変化で収縮するのだ。このことは、意外と知られていない。気温が上がればボディの木が膨らむ。すると弦が引っ張られて音程が上がる。気温が下がるとボディの木が縮み、弦が緩んで音程が下がる。気温と音程は比例するのだ。ライトがあたるステージ上では気温が高く、弦の音程が上がる。クーラーが効いた部屋内では、音程が下がる。木の収縮によって大きく左右されるギターのチューニングは、まるで生き物のように刻々と変化する。
往年の名だたるギタリストの写真を見ると、ほとんどはギターを右膝の上において弾いている。マノロ・デ・ウェルバ、ラモン・モントージャ、ディエゴ・デル・ガストール、メルチョール・デ・マルチェーナ、ニーニョ・リカルド、サビーカス…皆、姿勢は同じようにギターを抱えている。しかしやがて、次世代のパコ・デ・ルシアが右足を組んで、ややギターを横にして演奏する様になってからは、そのスタイルがギターを弾く姿勢の主流になった。私も30年以上の長い間、右足を組んで弾いていたけれども、最近になってから足腰の負担を軽減するために、右膝の上にのせて弾く様になった。これが意外と良い。始めは左手の動作に違和感があったり、指板がよく見えなかったりだが、慣れてくると、腹と胸がギターのボディに密着して出音が自分自身の口に近くなり、以前よりも音との一体感を感じられ、唄う感覚により近づいてる様に思える。そして何より、両足が揃って正面を向く姿勢の良さが、気分を一新させてくれて、気に入っているのだ。
リズムについて、ちょっと考えてみたい。一般的な楽曲は、楽譜に記載されるものだと、例えばこの曲は4分の3拍子で一拍が130で、ややゆっくりにとか、曲のリズム構成を作曲家や編曲者に指定されている。ところがフラメンコの場合そういうものはない。リズムとしてあるのは、コンパスだ。コンパスとは広義でリズムとして良いだろう。ロックバンドではドラムがリズムを刻む。フラメンコはカホンなどパーカッションが昨今のそれにあたるが、バルマという手拍子だけでも十分だ。バルマがない場合でもギターは弾ける。それはフラメンコギターが打楽器の機能を兼ね合わせているからだ。ギターの表面にゴルペ板というプラスチックの保護板を張り、曲のアクセントに指先や爪でそれを叩いて拍をとる事ができる。それがないクラシックギターは傷がついてしまう。
さてフラメンコギターで弾かれるリズム、もしくはコンパスは、弾き手のリズム感に大きく左右される。しかしリズム感は十人十色で皆違う。リズム感は後天性の感覚だから、学習次第で良くなる。けれどもリズムに興味ない人は学習しないから不得意になってしまう。興味ないといえば、人にも当てはまる。人の言う事を聞かない、独りよがりな性格を持つタイプはコンパスが苦手な傾向がある様に思える。人の輪から生まれたコンパスは、それぞれの人の波長の最大公約数だと言える。それを受け入れる感覚があれば、良いコンパスが身に付く。
縄跳びで大勢でやる長縄跳びというのがあるが、あれは長いヒモの両端を2人が回し、大勢が同時に跳ぶものだ。用意ドンで縄がやって来るタイミングを図って、しかも続けて何回も、皆一緒に呼吸を合わせて、「はいっ!はいっ!」て跳ぶ。拒否すれば跳べない。リズムをとる事、コンパスを出す事と良く似ていると思う。
スペインのヘレス・デ・ラ・フロンテラに滞在している時に、一つのテーマを勉強していた事がある。それは時間の感じ方で変わるリズムの維持加減であった。簡単に言うとヘレスと東京では生活のリズムが違うから、そこでギターを弾くテンポ感に違いが出るということだ。ひとときの時間に込める感情の容量に差がある、とも考えられる。効率的な生活を求め、時間を短縮するために駅で走る人さえいる東京では、音に込める思いが短く早い。昼飯に時間をかけ、シェスタ(昼寝)の習慣があるアンダルシア南部のヘレスでは、毎日がゆっくりとして豊潤な時が過ぎる。ここで育まれたブレリアという曲は、ヘレス人なら皆共通のリズム感で演奏され、それは異国人の僕とは違ったニュアンスを持ち、とても興味深かった。よく観察すると、ヘレスでは個人ではなく複数が内在する家族に主体があり、そのため日常に誰しも共通の感覚を持っている。そしてそれが自然とギターを弾くテンポにも出ている、ということがわかった。東京の部屋で一人ギターを弾いていた時には、考えもしない大きな発見であった。数年後、ヘレスで培った経験を土台にしてブレリアの曲を作り、おかげでCDまで出す事が出来た。今でもヘレスでは、きっと昔と変わらずに、たっぷりと、しかも濃密な時間が過ぎているに違いない。
ギターのコード中で、フラメンコに使われる最たるものは、EとAだろう。それぞれポル・アリーバとポル・メディオと呼ばれて、カンタオール(唄い手)から唄う前にカポタストの位置と共に指示される。コードの特徴として、Eの和音は基音となるミが3つあり、Aはラが2つだ。基音が3つあるEはより重厚な和音を奏でる。だから曲を聞けば、どちらのキーで弾いているかがその特徴でわかる。又、Aで弾かれたシギリージャなどの古い録音を聞くと、実に味わいのある響きが耳に残る。それは人間の耳で調弦した和音、つまりスペイン語でtimbreという意味の、ギターの和音の音色である。カポタストを付けてEとかAの和音を左手で押さえて、それを右手の親指で弾く、その響き。昨今のデジタルチューニングで合わせたギターを弾いても、その感じが出ないのは、左手でコードを押さえた状態での調弦をしていないせいだ。ギターの全解放弦があっていても、そのままではいけない。左手でコードを押さえる分だけ、弦が引っ張られるので、音が元の音より高くなる。だから押さえたコードのままで、再び調弦してあげると良い響きが出る。特にシギリージャはAをきれいに合わせると気持ちよい響きを唸り出す。フラメンコの世界は、たかが調弦でさえ、いつまでも手間を掛けさせてくれるのだ。
グループサウンドが全盛だった60年代後半の頃、小学校6年生の僕はクラスの遊び仲間に誘われて、ザ・フラワーノーズと言うバンドを結成した。歌とギター担当のリーダー、歌とギター担当、ドラム担当、そして幼少時に習った経験を頼られてオルガンを担当した僕、の4人がメンバーだった。当時流行ったモンキーズやタイガースの曲をコピーしたりしていたが、中学校に入ってから、自然に消滅してしまった。その後もメンバーの一人とは付き合いがあったので、彼にギターを教えてもらった。それが僕のギター人生の始まり。彼はフォーク世代のお兄さんから影響を受けていた。おかげで新譜ジャーナルなどの雑誌が簡単に手に入り、ギターのコードを覚えては流行った曲を口ずさんでいた。たくさんのシンガーソングライターを真似て遊んでいたが、その中に「別れのサンバ」等の曲で知られた長谷川きよしがいた。フォークギターは大体が鉄のスチール弦を張り、右手にセルロイドの三角片を持ってコードを弾くスタイルだった。けれども、長谷川きよしはガットギターを使用していた。ガットとは羊や豚などの腸から作った細い紐のこと。昔、弦に使われていたのでそう呼ばれる。今ではナイロンが使われている。クラシックギターもフラメンコギターもガットギターの部類に入る。長谷川きよしはそれを、ピックを持たずに右手でジャランと弾いて歌っていた。フラメンコ技法ではなかったが、強いタッチでスパニッシュ風であった。彼の出すレコードを次々買い求め、渋谷ジャンジャンでのライブも見に行った。それはプロアーティストの生演奏に触れた初めての経験だったかも知れない。今もライブハウスで活動を続けている長谷川きよし。機会があれば、今度久しぶりに見に行きたい。
フラメンコギターの魅力にその音色がある。指と爪で弾いて出る、あの「ジャラン」という、生々しい音。日本の気候は湿度が高いので、スペインの乾いた空気ほどには音が響かない。空気中の水分が音の伝達を重くしているのだ。木そのものが収縮する長所を活用した木造建築が発展出来たのとは逆に、木工楽器はその製作過程からハンディを負わせられている。スペインで良い音していたのに、日本に持ってきたらさっぱり響かない、なんて話はよく聞く。そんな日本でも、過去に良いフラメンコギターが製作された。田村廣ギターだ。今も日本各地のレストランやバルの壁に吊るされたり、多くの愛好家に持たれ、コンディションが良ければ「パリッ!」としたフラメンコの音色が出る日本の名器だ。僕は二台持っていたが、ひとつは84年のセビージャ滞在中に、マノロ・マリンのスタジオに出入りしていたギタリストのギターと交換してしまった。もう一台はヘレスの友人に預けてある。スペインの突き抜けるような青空のもとで、今どんな音をさせているかと思う。